校歌・校章

校歌

作詞 佐伯 仁三郎
作曲 木田 みさを

1.空の茜(あかね)を先(さき)立てて 都の乾(いぬい) 花照らう
丘も名ゆかし代々木台 伝統の栄(えい) われ踏(ふ)みて
呼ぶや思潮の暁(あけ)の声 社大 社大 おお われら

2.孤独、敗残、途(みち)に哭(な)き わが世 餓莩(がひょう)の野となれば  
社会の福祉誰(た)が任ぞ 忘我の愛と智の灯(ともし)
捧げん世紀来たりけり 社大 社大 おお われら

3.自由の鐘の鳴るところ 友愛の丘 月澄めり
汚濁(おじょく) 貪婪(どんらん)すさぶ世に 睦(むつ)ぶ久遠(くおん)の夢一つ
われらは茲(ここ)に結ぶなり 社大 社大 おお われら

4.焦土の果に誓えれば 再び見まじ苦艱(くげん)の日
冷たき 熱き争いの 上なる平和憧れて
行くは民主の道直(す)ぐに 社大 社大 おお われら

校章

本学の校章デザインは、短期大学時代の1951(昭和26)年に本科4期生として入学した大石武氏によって創案されました。彼は、当事のエピソードを次のように語っています。

松窓寮内で有志が集って酒をくみ交わしていた時のことでした。「短期大学と名のつく以上大学である。校章のない大学はない。校章を考えよう」ということになり、いろいろと模索しました。そこで、単に「大学」というのも味がなく、社大をアピールする意味からも、「社大であるなら、"社"を中に入れたらどうだろう」と私が発案し、山本信孝氏、高橋精一氏、緒方英雄氏、その他数名からその同意を得たのでした。

日本社会事業大学の校章

校章使用の変遷

1960(昭和35)年度版大学案内

こうして創案された校章が、漸次、使用されるようになっていきました。例えば、「大学案内」では1960(昭和35)年度版からこの校章が使用され始めました。

※当時の大学案内は、学生募集要項も含めて20頁の編成でした。

1960(昭和35)年度版大学案内

社大バッジ(非公式のデザイン)

ところが、スポーツ系サークルで使用されていた校旗などで校章デザインが独自に創案され、経過的には非公式のデザインが2種類存在していました。

1986(昭和61)年に校章のデザイン募集

そこで、1986(昭和61)年、40周年を迎える本学が実施した「創立40周年記念事業」の一つの柱として、「U・I(ユニバーシティ・アイデンティティ)事業の推進」が掲げられ、校章デザインの確定を行うことになったのです。そして、在学生、卒業生、役員、教職員らを大学関係者から広く公募する方法で、校章のデザイン募集を始めました。

しかし、公募のなかからは該当案が見つかりませんでした。本学がまだ短期大学であった当事、大石武氏が創案した校章デザインは、激動する時代の変遷を見据えながら現在まで継承され、日本社会事業大学を形象してきたのです。

当時の校章デザイン募集要項

当時の校章デザイン募集要項