共生の喜びを人々の心に灯す Chapter 01
感じられる場所に
ご自身の運営されるNPO法人井戸端介護の事業内容と、設立の経緯についてお聞かせください。
「井戸端げんき」と呼ばれる宅老所をはじめとし、「縁側よいしょ」(共生型デイサービス)や「踊り場かなちゃん」(通所介護事業所)「ばった庵」(通所介護事業所・共生型)など多様な形態の福祉事業に携わっています。法人設立は2002年に遡ります。
設立のきっかけは、父が脳卒中で倒れたことです。一命を取り留めたものの、以前のように働くことができず、家に引きこもるようになりました。
当時は若い障がい者の集う作業所か高齢者の多いデイサービスしか、父が日中過ごせる場所はありませんでした。しかし父はどちらの環境にもなじめず、落ち込みがちになり、身体機能も衰える一方でした。
同時期、私は特別養護老人ホームで働いていたのですが、そこでの画一的なケアの在り方に疑問を抱いていました。もっと利用者一人ひとりに寄り添った介護ができないだろうか。そんなときに知ったのが「宅老所」の存在だったのです。
文字通り、従来は高齢者をお預りする施設ですが、私はそこに「地域の需要に応じて、必要なサービスを提供できる」機能もあるとよいと考えていました。民家やそれに類似する建物で小規模デイサービスを行い、場合によっては宿泊も可能。大がかりな設備がいるわけではありません。ここでなら、自分の願う一人ひとりに寄り添う介護が実践できるのではないか。父が自分らしい生活を送れる一助になるのではという思いもありました。
そう思うと、居ても立ってもいられずNPO法人「井戸端介護」を設立。事業所第一号として、宅老所「井戸端げんき」を木更津市に開所しました。最初の入居者はもちろん、父です。
ご出身は横浜と伺っていますが、なぜ木更津に? また、具体的にどのように地域に溶け込んでいったのでしょうか。
母の実家が君津にあり、木更津は帰省時の通り道でした。年月を経るにつれ、賑わっていた街が廃れていく様子には寂しいものがありました。親しみを感じていたこの街のために何かしたいという願いも、法人開設の根底にあったように思います。
地域に根づくには、ひとかたならぬ努力が必要でした。開業資金が乏しく、幽霊屋敷のような物件を借り、数人のスタッフと事業を開始。閑古鳥が鳴く施設に利用者を呼び込むため、父にも協力してもらいました。不思議なもので、それまで覇気のなかった父は、呼び込み役を頼まれて以来、みるみる元気を取り戻していきました。見学にきた方々と愛想よく話し、見違えるように心身ともに回復。生きがいにつながっているようでした。
地域とのつながりがぐんと広がったのは、地元の有名人だったある方との出会いがきっかけです。車いすに乗っていた彼が車に轢かれそうになっている姿を目にし、とっさに助けたことから関係が始まりました。彼は、口は達者ながらも少し認知症が進んでおり、目を離すと私と出会ったときのように車いすで車道に出てきてしまうことも度々でした。ご家族も地域の方々も彼の挙動には困り果てていたのですが、私とはウマが合ったようで、施設に頻繁に顔を出してくれるようになりました。世話好きな彼が住民との顔をつないでくれたおかげで、宅老所は少しずつ地域に根づいていきました。
以降もさまざまな出会いがありました。認知症、精神疾患、身体障がいなど、どんな問題を抱えた相手にも一生懸命に向き合った結果、受け入れる方の事情やニーズに合わせて、自ずと事業も多岐にわたっていきました。
その過程で、いつしか利用者だけでなく、スタッフや近隣の住民も巻き込んだ豊かな人間関係が築かれるようになっていました。生きる意欲を失っていた利用者が、他者との関わりの中で役割や存在意義を見出し、息を吹き返したように元気になっていく。そんな光景を何度も見てきました。私やスタッフもまた、利用者の存在に励まされ、支えられている。こうして「ごちゃまぜ」の人間関係が生きる、現在の法人運営のスタイルが固まっていったのです。
出会いから得た学びを灯す Chapter 02
多様な人々との出会いが 地域に根付く支援のヒントに
多様な人々との出会いが 地域に根付く支援のヒントに
何が、伊藤さまを福祉の道へと突き動かしたのでしょうか。
高校時代に相次いで友人を亡くしたことがきっかけでした。1980年代という、日本が富みゆく時代を生きていたにもかかわらず、彼らは自ら命を絶ってしまった。経済的な豊かさと個人の幸せは必ずしも結びついてはいない。どんなに社会が豊かになっても、生きづらさを抱える人がいなくなるわけではない。人知れず悩みを抱える彼らの手を、しっかりと握れるようになれたら——。その思いが動機となり、日本社会事業大学に進学します。
強い決意をお持ちだったのですね。どのような大学時代を過ごされたのでしょうか。
大学時代は、本当に出会いに恵まれたと実感します。
たとえば、さまざまな社会問題と真剣に向き合っている先生方の存在。エイズ、LGBTQ、差別問題——、当時はタブー視されることも多かった、数々のトピックを、授業、ゼミ、サークル活動で、忌憚なく話してくださいました。
日本社会事業大学には、代々先輩方から受け継いでいる数々のアルバイト・ボランティア活動があり、そこでも魅力的な出会いがありました。
印象に残っているものは二つ。一つは、精神障がいのある方に一日付き添うというアルバイトです。彼は買い物好きで放っておくととんでもない高額商品を買ってしまうので、いつもデパートで「買う、買わせない」の攻防を繰り広げていました(笑)。突拍子もない行動を取るので目が離せず、「こんなに緊張感のある状態で過ごしているのか」と彼の生きる世界の大変さを実感しました。
もう一つは、ボランティア活動で、脳性まひの方の身の回りのお世話をしたことです。寝たきりの彼は、さまざまなボランティアの方の支えで生活できていました。携わった方はゆうに千人を超えると聞きました。一人の方の生活を支えるために、これだけ多くのボランティアが関わっている事実に驚いたものです。
この二人、特に後者の脳性まひの方と関わってきた経験が、どんな人をも受け入れる法人運営のスタイルのヒントになりました。
また、実習先の児童養護施設で、ある子どもからかけられた言葉は、その後の人との向き合い方を決定づけるものとなりました。「実習が終わったらもう来ないんだろ。今だけいいかっこして話しかけんなよ」。なおざりに慰めの言葉をかけた私に、吐き捨てるようにこう言った彼の表情に、はっと胸をつかれました。以来、誰に対しても「出会ったからには最後まで関わる」という覚悟が生まれたように思います。
揺るがぬ絆を胸に灯す Chapter 03
何度離れても結ばれる縁
伊藤さまが活動において、大事にされていることとは何でしょうか。
人との縁を大切にする姿勢でしょうか。利用者に最後まで向き合うことはもちろん、普段の人間関係全般においてそうありたい。
縁というのは「一度離れたら完全に切れる」というものではないと思います。家庭の都合などで働き続けられなくなったスタッフが再び戻ってくるのも、大歓迎です。実際、そういうスタッフは数多くいます。何度でも、気軽に訪ねてくれればいいんです。いつでも待っています。
東北大震災をきっかけに宮城県石巻市にNPO法人をつくったのですが、一時の被災地ボランティア活動で終わらせるつもりはなく、継続した支援をしたいがゆえに存続しています。そこには、私の後継がいます。今では、互いに支え合う仲間、より確かな福祉を実践していく同志として存在しています。彼のような志のある次世代の若者が、出会いの中で育ち続けているという実感があります。また、僕もそのように育んでもらってきたのだと思っています。
伊藤さまの目指す理想的な社会の在り方についてお聞かせください。また、今後ご自身はどうありたいとお考えですか。
現代社会は複雑になり過ぎています。もっと単純でいい。父や多くの利用者の方を見てきて感じたことですが、画一化されたシステムや制度では支援できない人々がいます。基本的には、何事も人間同士のやりとりでことたりるのです。
時々、高校時代に亡くなった友人たちを思い出します。あの時代に「井戸端介護」があれば、彼らを救えていたかもしれません。
これからも、迷える誰かの手をしっかりと探り当てられる人間であり続けたいです。
Message
時代とともに社会もまた変化していきます。そこに生きる人々がどう道を切り拓いていくかによっても変わります。既存の枠組みから零れ落ちる人がいないよう、互いに助け合える時代になればいい。どうか、これからの時代を生きる方々が、優しい社会を築いてくださいますように。
また、日本社会事業大学での講義でもお伝えしたように、学生の皆さんにはぜひ人を愛する気持ちを大切にしていただきたいです。誰かを思う気持ちほど尊いものはない。勉学に限らず、人との交流などからも多くの学びを得てください。応援しています。